小倉處平(しょへい)加療の地~川坂の神田伊助氏宅

北川散策㉘・西南戦争 2
日南市飫肥出身の「小倉處平」(おぐら・しょへい)は、西南の役で薩軍の将として飫肥隊を率いましたが、負傷したことにより、北川町川坂の神田伊助氏宅に逃れて加療しました。小倉は、明治10年(1877年)8月15日の和田越の決戦で、西郷軍奇兵隊5個中隊を率いて熊田に残っていましたが、政府軍の攻撃で隊長の山崎定平が負傷したため、後退してきた熊本隊の救援に向かい、その際、無鹿山で大腿部を負傷しました。西郷軍は和田越の決戦で敗北して長井村へ後退しましたが、小倉は神田氏宅で療養しました。翌日8月16日に西郷隆盛により解軍の令が出されたため、西郷軍のほとんどが政府軍に投降。同8月17日夜に西郷ら投降しなかった西郷軍残存兵は可愛岳の包囲網を突破しました。療養中だったため、可愛岳突囲決定の場にいなかった小倉も、可愛岳突囲の知らせを受けて西郷らの後を追うが合流できず8月18日早朝、可愛岳近くの高畑山中腹で自刃しました。「烏合の衆を以て、天下の大兵に抗するもの半歳。聊か以て武名を辱かしめざるを似たり。然れども事此に至る。亦命なり。宜しく死を以て此志を致すに若かざりなり」と言って自害したと伝えられています。享年32歳。小倉が加療した神田氏宅の角地に、平成25年12月、小倉處平を顕彰する「小倉処平の加療の地を守る記念堂」が完成、小倉の等身大の写真や人形、年譜などが展示されています。
『小倉處平』…江戸時代後期から明治時代初期にかけて活躍した武士、官僚、思想家。日南市飫肥(おび)にある飫肥藩の出身で、「飫肥の西郷」と呼ばれ、外交官として知られる小村寿太郎の才能を見出し、育成した人物として有名です。1845年(弘化3年)に飫肥藩の中級藩士・長倉喜太郎の次男として生まれ、少年時代を藩の振徳堂で学び、18歳の時に同藩士・小倉九十九の養子になりました。京都で藩の外交に携わり、帰藩後には振徳堂の句読師や寮舎長を務めました。彼の指導理念は世界に目を向ける進歩的なもので、塾生から尊敬を集めていました。その後、江戸で儒学者・安井息軒の門下生として学び、陸奥宗光や谷干城らと交流を深めました。小村寿太郎の非凡な才能を早くから見抜いており、14歳の小村を特例で振徳堂東寮に入寮させ、小村をより良い環境へ導くため、藩に公費留学制度を進言、自ら引率して長崎の洋学校「致遠館」へ留学させました。大学南校(現東京大学)への進学を目指して小村を伴い上京しましたが、当時の大学南校は雄藩出身者で独占されていました。そこで小倉処平は、小藩出身者にも等しく学ぶ機会を与えるべきだと「貢進生制度」を政府に建議し実現させ、小村寿太郎を大学南校に入学させました。貢進生制度の功績により文部権大丞の職に就いた後、公費でイギリス・フランスに留学し、政治や経済を学びました。





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