薩軍の野戦病院~成就(じょうじゅう)寺
成就寺(じょうじゅうじ)=北川町大字長井可愛6422-1=同町家田の観音山に寛文2年(1662)僧了悟が創建した寺院。天台宗派に属し、本尊は「聖観世音菩薩で「安楽山 成就寺」と称していました。延享3年(1746)、長井の現在地に移建。もともと同地には「可愛 神宮寺」と称する伽藍(がらん)=僧侶が集まり修行する清浄な場所=がありましたが、年を経るごとに荒廃していたようで、移建後、「可愛山 成就寺」に改称したと伝えられています。その後、明治4年(1871)に川内名(かわちみょう)の吉祥寺に併合され、荒廃寸前となりましたが、明治14年(1881)4月8日、檀徒の尽力で復興が成り、現在に至っています。
北川町教育委員会が平成8年3月に同寺本堂前に建てた看板には、『西南戦争時 野戦病院跡 成就寺』のタイトルと、「明治十年西南戦争時当地方は激しい戦地であった。由緒あるこの寺も当時薩軍に徴用され野戦病院として使用されていたと伝えられる。敷地の南東部には今も当時を偲ばせる墓石が見られる」の説明書きが添えられています。同寺の山門をくぐると、本堂に向かって左(東)側の小高い敷地に無数の墓石が並んでいます。北川町史などによると、西南戦争が拡大し戦火が延岡に迫った明治10年8月13日、同寺は「薩軍の野戦病院」として使われました。鹿児島県の大口で行われた戦闘で重傷を負った熊本隊の佐々友房(さっさ・ともふさ)もこの寺に入院し、8月17日明け方、白旗を掲げて官軍に捕えられ、監獄に収容され10年の刑に服したと伝えられています。佐々は、獄中で青年子弟を教育し、明治12年(1879)1月に出獄すると、熊本市内で同心学舎を設立(同14年2月に同心学校と改名)、15年2月に濟々黌(現在の熊本県立済々黌高校)と改称しました。










この記事へのコメントはありません。