可愛山陵(えの・みささぎ)~ニニギノミコト終焉の地

ニニギノミコト(瓊瓊杵尊)」の墓は、九州に3か所あるとされ、いずれも宮内庁の陵墓参考地となっています。1か所目は、西都原古墳群にある「男狭穂塚(おさほづか)古墳」。全長176mの巨大な帆立貝式の前方後円墳で、古墳の隣には、ニニギノミコトの妻「コノハナノサクヤヒメ(木花咲耶姫)」の墓、「女狭穂塚(めさほづか)古墳」(前方後円墳)もあります。2か所目は、鹿児島県薩摩川内市の新田神社境内にある「可愛山陵]。ホオリノミコト(火遠理命)の高屋山陵、ウガヤフキアエズノミコト(鵜萱草萱不合命)の吾平山陵と合わせて神代三陵の一つとなっています。
そして、3か所目が、北川町の「可愛山陵(えの・みささぎ)」。ニニギノミコトの終焉地と言われており、可愛岳(えのたけ)の麓にある塚は、明治28年(1895年)に宮内庁から「北川陵墓参考地」として認定されています。陵墓参考地とは、「被葬者は特定できないものの、陵墓である可能性が高いために宮内庁が管理している墳墓など」を指します。北川陵墓参考地は、日本書紀に記されているニニギノミコトの「筑紫日向可愛山之山陵」という記述が、可愛岳を指しているという伝承が根拠となっています。ニニギノミコトは、天照大神(アマテラスオオミカミ)の子孫であり、高天原から高千穂峰へ天降ったとされています。その後、コノハナノサクヤヒメと出会い、結婚し、子どもたちが誕生しました。ニニギノミコトが久しくして崩御した地が、この可愛岳の麓であると伝えられています。明治10年(1877年)の西南戦争の際、西郷隆盛率いる西郷軍がこの可愛岳の麓に宿陣しました。これは「官軍が皇祖の御陵に砲撃しないだろう」という考えがあったためと言われています。西南戦争の際に西郷隆盛の陣屋をこの「可愛山陵」の手前に置いたことで、政府軍は砲弾を飛ばすことはできなかったとされています。
陵墓参考地とは、宮内庁が管理する皇室の墳墓のうち、被葬者が特定されていない、あるいは伝説上の人物であるなど、陵墓として確定できないものを指します。これらは皇室用財産として宮内庁が管理しています。陵墓参考地は、天皇や皇族の墓である「陵墓」に準ずるものとして扱われます。宮内庁は、全国に46の陵墓参考地を管理しており、その総数は陵墓などを含め899に及びます。










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