西郷の長男、菊次郎加療の地~俵野の児玉惣四郎宅
北川散策㊲・西南戦争 6
西郷菊次郎療養の地(児玉惣四郎宅)=北川町俵野~俵野脱出を前に西郷は児玉宅で加療中の息子菊次郎に永遠の別れを告げ、政府軍に投降するよう諭しました。

西郷隆盛は33歳の時、幕府改革に失敗した京都の僧侶・月照(げっしょう)と共に追われる身となり、2人で錦江湾(鹿児島)に身を投げましたが、西郷は助かり、その後薩摩藩主に匿われ、奄美大島で生活しました。その時、22歳の島の女性、愛加奈那(あいがな)と結婚し、菊次郎と菊子の2人の子供に恵まれました。菊次郎は8歳で鹿児島の西郷家に引き取られ、12歳で米国に留学しましたが、菊次郎が17歳のときに西南戦争が起こり、帰国して父に従い西南戦争に従軍しました。戦争が始まって間もない明治10年2月27日、菊次郎は、「高瀬の戦い」(現在の熊本県玉名市高瀬)で右足を鉄砲で撃たれ、負傷して歩けなくなりました。菊次郎は6月末に延岡に運ばれ、北町の北藤屋(後藤家)という商家で療養しました。北藤屋は南町の豪商・藤屋の分家にあたります。(藤屋は、同市北小路の「藤仲興産」の前身)。その後市内で右足のひざ下を切断する手術を受け、祝子村大野で療養。「8月11日に薩軍の看護兵と昼食を食べた」という記録が残されています。その後、政府軍が近づいたため、薩軍の野戦病院だった北川町可愛の「成就(じょうじゅう)寺」に運ばれ、療養していましたが、和田越の戦いの後、隣村の俵野の児玉惣四郎宅に運ばれ加療を続けました。8月16日に薩軍が解散し、翌17日夜、俵野から脱出することになりましたが、最後の軍議で可愛岳突囲を決した西郷は、俵野に傷病者を残していくことを決意します。菊次郎もその一人でした。俵野脱出を前に西郷は菊次郎に永遠の別れを告げ、「政府軍の中将として延岡に来ている弟の西郷従道(つぐみち)に会い投降するよう諭した」と伝えられています。西郷は、従者の永田熊吉に「菊次郎はとても連れては行けまい。明日官軍が来たら投降してくれ。延岡には弟も来ているはずだから、何とか引き取って世話をしてくれるだろう。お前が菊次郎を負うて官軍に降参してくれ」と伝えました。西郷らが可愛岳突囲に出たあと、熊吉は菊次郎を背負って従道のところに連れて行きました。従道は、政府陸軍の中将(有栖川征討宮付陸軍中将)で、戦いを視察するため延岡に来ており、従兄の大山巌少将と共に、新小路の小森竹男さん宅に宿泊していました。長い間西郷家に仕えていた熊吉が菊次郎を背負って投降すると、従道は涙を流して喜び、菊次郎を官軍病院に収容し療養させたと伝えられています。従道と菊次郎が会うのはこの時が初めてだったそうです。菊次郎は加療後、暫くして鹿児島に帰りましたが、その際、博愛社(後の赤十字)のお世話になり、帰路に就いたそうです。西南戦争を記した「西南記伝」には、「西郷が俵野を出て可愛岳に向かった後、菊次郎さんは熊吉さんに背負われて、父・西郷さんの後を追いますが、追いつけなかったー」と記されています。また、香春健一著の「大西郷遺聞」には、「菊次郎は西郷が去ったあとも、そのまま惣四郎宅で療養していた」と書かれてます。熊四郎さんの妹で、当時23歳だったイセさん(後に惣四郎さんの妻)の話では、「鹿児島から2人の女性が俵野に来て、菊次郎の看病をしていた」ようです。一人は高貴な感じの女性、一人はお手伝いさんらしく、高貴な女性はもっぱら幼児の世話、菊次郎の看病はお手伝いの女性だったそうです。西郷の孫で後に参議院議員として法務大臣を務めた西郷吉之助が俵野を訪れた際、「一人は『イト』です。」と話したそうです。イトは西郷の正妻で、イトが連れてきた幼児は西郷の子で、当時3歳の酉三(とりぞう)だと思われます。




西郷菊次郎~西南戦争後、23歳で外務省に入り、アメリカ公使館や本省で勤務。1887年(明治20年)6月に再びアメリカへ留学。新渡戸稲造から情報を得て、彼と同じジョンズ・ホプキンス大学政治学科に在籍した。右足の宿痾により留学を中断し、帰国の後、1890(明治23年)1月、宮内省式部官。日清戦争で日本が台湾を得た1895年(明治28年)、台湾に転じ、基隆支庁長、宜蘭長官(4年半)に就任。日本に帰国後、京都市長(6年半)などの任にも就く。この期間に「京都百年の大計」として京都市の三大事業「第二琵琶湖疎水(第二疏水)開削」、「上水道整備」、「道路拡築および市電敷設」を推進した。1911年(明治44年)、病気を理由に京都市長を辞職した。辞任後、鹿児島県に帰郷したが、その功績により多額の慰労金が京都市より贈呈されることがきまり、療養中の菊次郎がそれを受け取った。1年の療養ののち1912年(明治45年)7月、島津家管理の永野金山鉱業長に就任した。在任中は夜学校を開き、自費で武道場を建てるなど、青少年人材育成と地域づくりに多大な貢献をし、在任8年目の1920年(大正9年)に辞職。1928年(昭和3年)11月27日、鹿児島市薬師町の自宅で心臓麻痺により死去した。満67歳没。
台湾での功績→菊次郎は23歳で外務省に入り、アメリカ公使館で外交官を務めた後、1895年(明治28年)、34歳の時、日本統治が始まった台湾へ渡りました。1902年までの約7年間、基隆(キールン)や宜蘭(イーラン)で政府の要職を務め、約4年半勤務した宜蘭庁(現在の宜蘭県に当たる行政区分)のトップである宜蘭庁長では、氾濫を繰り返していた川の治水工事に着手し、「西郷堤防」と呼ばれる堤防を建設しました。この堤防は現在も残っています。このほか、農地の拡大や道路の整備を進めました。彼の功績を称え、日本に帰国後の1905年には宜蘭の有志によって石碑が建てられ、「宜蘭の恩人」として後世に伝えられています。菊次郎が宜蘭庁長時代に官邸として使用していた建物は、現在「宜蘭設治記念館」として一般公開されており、観光スポットになっています。

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