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中津大四郎(だいしろう)自刃の地~辞世の句を詠み割腹

北川散策㉟

中津大四郎(有秀)は、弘化(こうか)元年(1844)熊本城下生まれ。旧肥後藩士の馬術師範役だった中津は、西南戦争が始まった明治10年(1877)2月20日、同志40人を糾合し(後に200余人となる)久本寺に本営を置いて竜口隊(りゅうこうたい)を結成。薩軍の糧食を供給する炊飯所を設けて軍を後方から支援し、軍が熊本を撤退した後も竜口隊は各地を転戦しました。8月15日の「和田越の戦い」に敗れた後、俵野に追い詰められた薩軍は翌16日に全軍に解散令を出し、ここで諸隊は解散し官軍に降服しましたが、中津は同志達に別れを告げ、さらに西郷、桐野、村田ら薩軍幹部達と面会。「そこもとすでに決するところあり、これより屠腹永訣せん」と言い残し、敗戦の責任を取って竜口隊の副隊長格だった野口勝三を介錯人として、天神社の裏手で自刃しました。34歳でした。部下たちも共に自決することを願い出ましたが、すべて禁止したと伝えられています。中津大四郎の墓は、可愛御陵(えのみささぎ)参考地から北に約140メートル緩やかな坂を上った天神社境内の西側山中にあり、『義乎立志 身波此山爾捨天名乎 末野世爾萬天 乃古須宇禮志佐』(義を立てし 身はこの山に捨ておくも 名を末の世にまでのこす嬉しさ)の辞世の句が刻まれています。自刃の際に大四郎は、天神社の神主に金銭を渡し、自身の墓を建て辞世の句を刻むよう頼んだ、と伝えられています。

『竜口隊』→九州では、各地の有志者が私隊を結成し、数多く薩軍に身を投じました。各地で結成された数多くの諸隊の中でも代表的なものは、明治のジャーナリストとして知られる池辺三山の父である池辺吉十郎が率いた「熊本隊」、ルソーの『民約論』に傾倒し、自由民権を唱える植木学校を創立した民権論者・宮崎八郎が率いた「協同隊」などですが、その他にも「人吉隊」「飫肥隊」「佐土原隊」「延岡隊」「高鍋隊」など、多数の隊が薩軍に従軍し、西南戦争に参戦しました。中津大四郎が率いた「竜口隊」もその一つです。

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