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『飫肥の西郷』、小倉處平~三足の山中で自刃

北川散策㊱・西南戦争 5
『小倉處平』(おぐら・しょへい)…江戸時代後期から明治時代初期にかけて活躍した武士、官僚、思想家。日南市飫肥(おび)にある飫肥藩の出身で、「飫肥西郷」と呼ばれ、外交官として知られる小村寿太郎の才能を見出し、育成した人物として有名です。1845年(弘化3年)に飫肥藩の中級藩士・長倉喜太郎の次男として生まれ、少年時代を藩の振徳堂で学び、18歳の時に同藩士・小倉九十九の養子になりました。京都で藩の外交に携わり、帰藩後には振徳堂の句読師や寮舎長を務めました。彼の指導理念は世界に目を向ける進歩的なもので、塾生から尊敬を集めていました。その後、江戸で儒学者・安井息軒の門下生として学び、陸奥宗光や谷干城らと交流を深めました。小村寿太郎の非凡な才能を早くから見抜いており、14歳の小村を特例で振徳堂東寮に入寮させ、小村をより良い環境へ導くため、藩に公費留学制度を進言、自ら引率して長崎の洋学校「致遠館」へ留学させました。大学南校(現東京大学)への進学を目指して小村を伴い上京しましたが、当時の大学南校は雄藩出身者で独占されていました。そこで小倉処平は、小藩出身者にも等しく学ぶ機会を与えるべきだと「貢進生制度」を政府に建議し実現させ、小村寿太郎を大学南校に入学させました。貢進生制度の功績により文部権大丞の職に就いた後、公費でイギリス・フランスに留学し、政治や経済を学びました。

西南の役で薩軍の将として飫肥隊を率いた小倉は、明治10年(1877年)8月15日の和田越の決戦で、西郷軍奇兵隊5個中隊を率いて熊田に残っていましたが、政府軍の攻撃で隊長の山崎定平が負傷したため、後退してきた熊本隊の救援に向かい、無鹿山で鉄砲の弾丸を受け大腿部を負傷しました。西郷軍は和田越の決戦で敗北して長井村へ後退しましたが、小倉は仲間が担ぐ神輿に乗せられ、小倉が以前から寝泊まりしていた川坂の神田伊助氏宅で療養しました。翌日8月16日に西郷隆盛により解軍の令が出されたため、西郷軍のほとんどが政府軍に投降。同8月17日夜に西郷ら投降しなかった西郷軍残存兵は可愛岳の包囲網を突破しました。療養中だったため、可愛岳突囲決定の場にいなかった小倉も、可愛岳突囲の知らせを受けて西郷らの後を追うが合流できず8月18日早朝、可愛岳近くの高畑山中腹で自刃しました。「烏合の衆を以て、天下の大兵に抗するもの半歳。聊か以て武名を辱かしめざるを似たり。然れども事此に至る。亦命なり。宜しく死を以て此志を致すに若かざりなり」と言って自害したと伝えられています。享年32歳。

 

「飫肥西郷」小倉處平、自刃之地~高畑山中腹 西南戦争が勃発すると、小倉は西郷隆盛率いる薩軍側につき、飫肥隊を率い、西郷軍奇兵隊総軍監として各地を転戦しました。1877年(明治10年)8月15日の和田越の戦いで銃創を負い、8月18日早朝、同町三足(みたし)の高畑山中腹で自刃しました。32歳という若さでした。

 令和7年12月16日早朝、小倉が自刃した同町三足の高畑山を訪ねました。西郷資料館から南に約1キロ、三足の集落に入り、農道を西に進みJR日豊本線のガードをくぐってすぐに左折。約300メートル進んだ山際に案内の標柱が立っています。ここから山中に立つ鉄塔を目標に、山道を歩いて約20分、約450メートル上った標高約190メートルの斜面に石碑が建てられています。碑文には『長崎留学制を創立し、小村寿太郎等を送る 明治四年官命により英国に留学、伊藤博文等と親交あり、 明治十年二月飫肥に帰り薩軍に投ず 無鹿山にて大腿に銃創を受け舁(かつ)がれて川坂畑ケ谷神田伊助宅に来たが、永く居らず舁がれてこの地に来り 咽喉を突いて絶命 その後五十五年間この地は (注)香春建一の踏査迄不明だった 其後四十二年間その碑の建っていないのを嘆いて勲三等黒木政治建立 昭和四十九年十二月』(原文のまま)と書かれています。下山後、山道そばの民家に住む80歳代の女性(矢野さん)から石碑建設当時の話を聞きました。宮崎の清武から2人の職人さんが馬を連れて訪れ、女性の家に3泊、そりに積んだ石材を馬が引いて自刃の場所に通い、碑を建立したそうです。今でも時々、県外から手を合わせに訪れる人が居るそうです。ただ、猪などの害で山道が荒れており、『2年後の西南戦争150年までには整備してほしいですね』と話しておられました。
(注) 香春(かはる)建一氏(明治11年延岡市生まれ、同市大貫町「誓敬寺」の前住職、西南戦争の踏査研究に寝食を忘れ、「西郷臨末史」により、県の文化功労賞を受賞・昭和42年)

「西郷臨末史」より~『飫肥西郷の名で呼ばれていた小倉処平は、十五日和田越戦の際無鹿にて銃創をうけて後、北川村畑ヶ谷なる神田伊助方に病臥していたが、十七日夕刻伊助がその夜の可愛嶽突囲のことを伝えきき、小倉に語ると、「かねてそんなこともあろうかと思うていた」と、さすがに感慨無量のものがあったらしく、涙を浮かべながら、「これから俵野までどの位あるか」と伊助にたづねると、「北川を渉って、坂本から繰越峠を越えて一里余りはあろう」と言った。小倉は黙って考えていたらしかったが、やがて決意のほどを伊助に語ると、伊助は泣いて別れを惜しみ、まもなく森笹菊二、柴田直治の二人の青年の担ぐ輿に、傷の痛みに堪えながら、神田の家を出たときはもう夜に入っていた。俵野に着いたときは薩軍はすでに出発後であった。しかし小倉はなお絶望しなかった。二人の青年を励まして可愛嶽へ、西郷の後を追わしめたが、夜陰に乗じて可愛嶽を攀(よ)づることも容易ではなかった。遂に方向を誤まり官軍の哨線内に迷い入り、俵野の南端なる高畑山の中腹に輿(みこし)を据えさせ、はるかに突囲の喊声(かんせい)をきき乍ら割腹した。小倉は村田新八、島津啓次郎とともに、薩軍の三知識と称せられた』(原文のまま)

 「西南戦争 和田越ノ戦を語る戦争遺構」(牧野義英著、2020年7月初版発行)には、『飫肥隊隊長(騎兵隊軍監)小倉處平の負傷地については、二説あるようだ。一つは、この友内山に騎兵隊軍監として布陣していて砲弾で大腿部を負傷したという説。他一つは、薩南血涙史が伝える小梓峠と和田越との間の熊本隊救援の際に負傷の説。負傷後は川坂の神田伊助宅に退き加療を受けていた。(中略)飫肥西郷の異名を得る程気概に満ち、後の外務大臣小村寿太郎の目を世界に向けさせるなど若手育成に力を注いだと言われる。自身は英国で経済を学び大蔵省七等出仕となっていたが、明治十年二月十五日、西郷隆盛が挙兵したとの報に接し辞職して帰郷している』と記されている。

 

 

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