『桐野利秋』宿営の地~薩軍の事実上の司令官
北川散策㊳・西南戦争 7
桐野利秋(きりの・としあき)宿営の地→明治10年8月15日和田越えの戦いに敗れた西郷軍は、ここ俵野に集結しました。児玉熊四郎宅に本陣が置かれ、最後の軍議が開かれました。党薩(とうさつ)諸隊に対しては、解散布告令が出され、可愛嶽突囲戦が決議されました。岡田宅(当時の戸主は児玉初治)は、桐野利秋が投宿し最後の作戦指令を出したところでもあります。この地は8月17日夜の可愛嶽突囲戦の出発地点にもなりました。党薩(とうさつ)隊とは、薩摩軍(西郷軍)に合流し、政府軍と戦った九州各地の諸隊のこと。主な党薩隊=熊本隊約1300人、熊本協同隊約400人、人吉隊約500人、延岡隊約1400人、高鍋隊約1070人。


桐野利秋は、幕末から明治維新にかけて活躍した薩摩藩出身の武士で、陸軍軍人。西南戦争では、西郷隆盛率いる薩摩軍の実質的な司令官を務めました。天保9年(1839年)に薩摩藩で城下士中村家の三男として誕生、「中村半次郎」と名乗りました。若い頃は家計が苦しく、小作や開墾で家計を支えていました。若者であった「二才(にせ)」時代には、剣術の腕が立ち「人斬り半次郎」の異名で知られていました。戊辰戦争では新政府軍として功績を挙げ、大総督府軍監を務め、明治維新後は桐野利秋と改名し、陸軍少将にまで昇進しています。西南戦争開戦時には、陸軍少将を務め、政府に不満を持つ西郷隆盛に追随し、西南戦争に参加しました。西郷軍のすべての軍務を指揮し、熊本城攻略の正攻法を主張したと言われていますが、政府軍の圧倒的な兵力と武器を前に劣勢となり、転戦を余儀なくされます。桐野は、西南戦争において西郷軍の事実上の司令官として軍務全般を指揮しましたが、政府軍の優位な状況の中、戦いは薩軍にとって悲劇的な結果をもたらしました。彼は西郷隆盛と共に、日本の最後の内戦である西南戦争で最後まで戦い抜き、1877年(明治10年)9月24日、鹿児島城山での政府軍による総攻撃に遭い、額を撃ち抜かれて戦死しました。享年38歳。
桐野は、敗走後は児玉初治邸に宿陣。二晩お世話になった御礼に贈ったとされる刀が、児玉氏の子孫、岡田眞知子さんから市へ寄贈されました。2018年9月から資料館に展示されています。

可愛嶽突囲戦薩軍登山口→明治10年(1877)8月17日夜、官軍の包囲網が完成し、翌朝、西郷本陣を総攻撃する手筈でしたが、午後10時、夜陰にまぎれ、総勢600人程の薩軍は村人を道案内に、前軍=辺見十郎太、河野圭一郎、中軍=西郷隆盛、別府晋介の乗るニ挺の輿を守る桐野利秋、村田新八、後軍=貴島清、中島健彦の隊が粛々として続きました。18日未明、中の越の頂上に達した前軍は、英式ラッパ一声、官軍 第1・第2旅団の幕営に突入しました。ふいをつかれた官軍は総くずれとなり、四散して、見事に突囲戦は成しました。しかし官軍の哨戦は網の目のごとく張りめぐらされており、道なき道の山岳逃避行は故郷 鹿児島城山まで、半月近く続きました
明治10年8月17日夜、官軍の包囲網は完成し、翌朝は西郷本陣を総攻撃する手筈であった。午後10時、夜陰にまぎれ総勢600人程の薩軍は村人を道案内に、前軍(辺見十郎太、河野主一郎)、中軍(西郷隆盛、別府晋介の乗る2挺の輿を守る桐野利秋、村田新八)、後軍(貴島清、中島健彦)の隊が粛々として続いた。18日未明、中の越の頂上に達した前軍は英式ラッパ一声、官軍第一・第二旅団の幕営に突入した。ふいをつかれた官軍は総くずれとなり四散して、見事に突囲戦は成した。しかし官軍の哨戦は網の目のごとく張りめぐらされていた。道なき道の山岳逃避行は故郷 鹿児島城山まで、半月近く続いたのであった(北川町教育委員会)




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