御頭(おとう)神社~豊後の佐伯惟治公を祭る
御頭神社は、学問の神様、豊後の佐伯栂牟礼(とがむれ)城の城主・佐伯惟治(さいきこれはる)公を祭っています。惟治公は、若くして優れた政治を行い、民や家来の信望を集めていました。しかし、その権勢を妬む輩が、「惟治は謀反を企てている」と大守である大友義鑑(よしあき→大友宗麟の父)に事実無根の告げ口をします。惟治は、「決してそのようなことはない」と言い張りますが、日頃から彼を快く思っていなかった義鑑は、臼杵近江守長景に「惟治を殺せ」と命令します。長景は2万の兵を挙げて、栂牟礼城を攻めますが、険しい山城をどうしても落とすことができません。そこで、惟治を騙すために使者を送り、「私が義鑑公の怒りを解くから、この城を明け渡して、日向の国に身を寄せなさい。」と伝えました。惟治は、この言葉を素直に信じ、可愛岳(延岡市北川町)に身を寄せますが、いつまでたっても長景から連絡はありません。しびれを切らした彼は、伊予に出ようと決心し、家来を率いて北進します。三川内(延岡市北浦町)の尾高智山(おたかちやま)に来たところで、長景の命令を受けた一行に出くわし、ここで惟治は必死に抗戦しますが、多勢に無勢、ついに彼は33歳の若さで悲憤の最期を遂げます。大永7年(1527)11月のことでした。生き残った家臣の一人は、主君の首を敵に渡してはならないと、小袖に包み、暗闇の中を懸命に逃げのびました。敗走の途中、疲れを癒すため瀬口宝泉寺(延岡市北川町)で一息つくことに。休憩の後、出発しようと思い、木にかけていた小袖の包みを手に持つと、不思議なことに、それが急に重くなり、どうしてもその場から動かせなくなりました。家臣はどうしてよいか迷い、事の次第を宝泉寺の住職に打ち明けます。すると住職が読経を唱え、惟治の首を境内に手厚く葬ってくれました。住職が、毎年祭祀供養を施すことで、惟治の霊はようやく鎮まり、御頭大明神として人々から慕われるようになりました。その後、文武両道に優れていた惟治公は、学問の神様として信仰を集めるようになり、現在、受験シーズンには地区内外から多くの人達が合格祈願に訪れています。また、この神社は、頭の病気を治す神様としても御利益があるそうです。

霊廟 おとうさま御縁起
「たまたま大永七年(1527)秋、豊後の国栂牟礼の城主 佐伯薩等惟治公、故ありて主家大友より攻められ当地三川内に落ち来たるに、新名治郎太夫の一党多勢をもって迎え撃ち、ついに尾高知の峯において、悲憤の最期をとげ給う。時に惟治公は御年三十三歳なりしと伝えられる。生き残りたる一人の家臣は、主君惟治公の首級を敵手に渡さじと、涙ながらに小袖に包み、夜陰にまぎれて、山の尾根間道を伝い落ち行き、疲れ果てたる身をもってここ宝泉寺までたどりつき、境内のケンボウナシの枝に、首級の包みをかけしばし休息したる由なり。
さて出発せんとするに、不思議やな首級包みはにわかに重く、枝より動かすことが叶わず。止むなく住職に事の次第をつぶさに告ぐれば、住職は戦国の世の習ひとはいえ、惟治公の非運を深く悼み、いとも懇ろに供養の上境内に手厚く葬り、年毎の祭祀供養を怠ることなし。
以来四百数十年、おとう大明神とこそ称え申して崇め奉れば、惟治公の御霊はじめて安まり、恩沢漸く村里に及びて、崇敬参拝の風次第に昂まりしとぞ。
さる程に、かかる由緒ある宝泉寺も、星移り霜おるるにつれていつしか衰微し堂宇は荒廃して無住の寺となり、ただ僅かに惟治公を祀る小宇おとうさまのみ、盲僧によりて祭りつがれて変ることなく、古来より頭のいたみ、血のやまい、さては近頃は学生たちの受験のねがい、其の他もろもろの祈願をこむるに、霊験いともあらたかにして、請願成就ならざるはなしとし、近郷はいうまでもなく、遠く宮崎・大分などより崇敬の男女うち続き、堂内には常に燈明香煙のたゆることなしという。」
御頭神社奉賛会 瀬口老人クラブ


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