御頭神社~学問の神様

学問の神様として信仰を集める延岡市北川町瀬口地区の御頭(おとう)神社の大祭が2024年1月、新型コロナ感染症の影響で4年ぶりに開かれました。受験生の家族、地元の人など大勢の参拝客でにぎわいました。大祭は、地元、「瀬口さんさんクラブ」の会員らでつくる御頭神社奉賛会(杉野久光会長)が主催して開きました。
御頭神社は、学問の神様、豊後の佐伯栂牟礼(とがむれ)城の城主・佐伯惟治(さいきこれはる)公を祭っています。惟治公は、若くして優れた政治を行い、民や家来の信望を集めていました。しかし、その権勢を妬む輩が、「惟治は謀反を企てている」と大守である大友義鑑(よしあき→大友宗麟の父)に事実無根の告げ口をします。惟治は、「決してそのようなことはない」と言い張りますが、日頃から彼を快く思っていなかった義鑑は、臼杵近江守長景に「惟治を殺せ」と命令します。長景は2万の兵を挙げて、栂牟礼城を攻めますが、険しい山城をどうしても落とすことができません。そこで、惟治を騙すために使者を送り、「私が義鑑公の怒りを解くから、この城を明け渡して、日向の国に身を寄せなさい。」と伝えました。惟治は、この言葉を素直に信じ、可愛岳(延岡市北川町)に身を寄せますが、いつまでたっても長景から連絡はありません。
しびれを切らした彼は、伊予に出ようと決心し、家来を率いて北進します。三川内(延岡市北浦町)の尾高智山(おたかちやま)に来たところで、長景の命令を受けた一行に出くわし、ここで惟治は必死に抗戦しますが、多勢に無勢、ついに彼は33歳の若さで悲憤の最期を遂げます。大永7年(1527)11月のことでした。生き残った家臣の一人は、主君の首を敵に渡してはならないと、小袖に包み、暗闇の中を懸命に逃げのびました。敗走の途中、疲れを癒すため瀬口宝泉寺(延岡市北川町)で一息つくことに。休憩の後、出発しようと思い、木にかけていた小袖の包みを手に持つと、不思議なことに、それが急に重くなり、どうしてもその場から動かせなくなりました。家臣はどうしてよいか迷い、事の次第を宝泉寺の住職に打ち明けます。すると住職が読経を唱え、惟治の首を境内に手厚く葬ってくれました。住職が、毎年祭祀供養を施すことで、惟治の霊はようやく鎮まり、御頭大明神として人々から慕われるようになりました。その後、文武両道に優れていた惟治公は、学問の神様として信仰を集めるようになり、現在、受験シーズンには地区内外から多くの人達が合格祈願に訪れています。また、この神社は、頭の病気を治す神様としても御利益があるそうです。
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