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西郷さん、縁側に腰掛け昼食~児玉安治宅跡「西郷茶屋」

北川散策㊴・西南戦争 8

 「西郷茶屋」は、明治10年(1877)8月12日に西郷隆盛が休憩した場所です。北川町史などによると、西郷隆盛は8月10日夜、本小路の原時行邸に移動、一夜を明かした後11日夜、原宅(現在の野口遵記念館北東側駐車場付近)から約100メートル北の「豊後口」(本小路辺りの五ヶ瀬川、亀井橋南詰)から川舟で五ヶ瀬川を下り、東海港で露臥(ろが)=露天で寝ること、野宿=した後、12日北川を遡って長井村に向かい、北川右岸の現西郷茶屋付近で舟を下り、すぐ近くの農家児玉安治宅(現在の日豊本線敷内)の縁側に腰を掛けて昼食を取りました。西郷茶屋(現在は営業していません)の駐車場に掲げられていた由来書き看板には、「8月12日出水中の北川を小舟にて遡上、休憩昼食せるは児玉安治宅 まさにこの西郷茶屋の所なり その後 村田新八、別府晋介等と共に熊田吉祥寺、笹首小野彦治方に泊り 15日官軍3万と和田越に戦い敗れ俵野児玉熊四郎方に宿す(中略)この屋敷は西郷以下将士の昼食せし所 依って西郷茶屋と名づく 昭和42年9月24日」と書かれています。

西郷の研究者で、誓敬(せいきょう)寺(延岡市大貫町)元住職の故・香春(かはる)建一氏は、著書「西郷臨末記」(昭和45年3月初版発行)に『私の外祖父、光勝寺(延岡市南町)住職権藤円海師の日記(渉日録)に「八月八日。大風雨。」と書かれており、十一日の五ヶ瀬川は濁流だったと思われる。西郷の一行は、止むなく舟中に露臥して一夜を明かし、北川村可愛に達して舟から上がり、まもなく川沿いの農家児玉安治の家に足を駐め、南縁に腰を下ろして昼食を喫しつつ休憩した。当時の児玉の家は、その後大正十二年、国鉄日豊線開通の際、他に移り、その当時の屋敷の上を現在日豊線が走っている』と記しています。

香春建一氏(明治21年延岡市生まれ、西南戦争の踏査研究に寝食を忘れ、「西郷臨末史」により、県の文化功労賞を受賞・昭和42年)

 香春建一さんは、明治21年(1888)、延岡市中町の誓敬寺に生まれました。郷土史や西南戦争、西郷隆盛の研究家としても知られ、「大西郷遺聞」(だいさいごういぶん)のほか「西郷とその徒」「大西郷突囲(とつい)戦史」「木砲」「風雲」など多数の著書があります。香春さんは、延岡市北川町俵野から鹿児島まで、西郷一行が歩いた道をたどっただけでなく、西南戦争を経験した人に直接会って取材しておられるなど、どの著書も非常に信頼性の高い内容になっています。(平成26年発行の「手づくり郷土史 西南戦争と延岡」延岡西南の役会編)より、抜粋。

 

↑天神社(俵野)境内から北を望む。左端のこんもりとした木々の裏が「西郷茶屋」辺り

 ↑くりごし峠→蛇行している北川を進むには船便を使うと遠回りになるため、「新しい道を使い船便から陸路に変更、坂本の集落でまた船便に戻る」→つまり、船を”繰り越した”ことから、くりごし峠の名が付いたと伝えられています

児玉安治宅(西郷茶屋)を後にした一行は、可愛から徒歩や輿で北に向かい、くりごし峠(道の駅北川はゆま付近⇔坂本の集落)を越え、陸路で熊田方面に向かい、12日は野峰地区の高台にある吉祥寺で1泊。そして13、14日は熊田のすぐ南、笹首の小野彦治方(現在の北川小学校付近)に宿陣しています。香春氏はその時の様子を『西郷の輿が13日の午後、小野方に着くのを待って、幾人かの護衛兵は幾本かの孟宗竹を伐って来て、家の周囲に目隠しのための竹垣を急造、狙撃隊の川北新九郎は抜刀のまま夜を徹して見回っていた。小野家では何時に似ず家族と同宿していたが、西郷は奥の間から出てこなかった』などと臨末記に書いています。また、香春氏は、当時吉祥寺~小野宅まで西郷の輿を担いだ青年の一人で、近くに住んでいたという河原国治氏に聴き取りしています。河原氏は輿を担いだ当時20歳だったそうで、西郷に随行していた薩摩将軍の一人が村の青年を集め、「お前たちはどんなことがあっても、あのお方を粗末にしてはならぬぞ」と警めたこと、「西郷が床柱に背を寄せながら、達磨さんのように黙って座っていたのをと目撃した」ことなど当時の思い出を香春氏に語ったそうです。

↓”達磨さんのように座っていた”~笹首の小野彦治方で西郷さん

↑↑「八月十五日未明、笹首前面の北川には十四、五隻の川舟が用意され、西郷以下薩軍の諸将が乗り込み、差木野に行くよう命じられた。午前七時、西南の役最後の激戦地和田越の決戦が開始された。この戦いで、西郷は初めて陣頭指揮をとった」(北川町教育委員会が小野彦治方前の立てた看板より)

「小野彦治方を立ち出でたのは、未明と言いながら、もう八月十五日の払暁に近かった。北川沿いに小さな自然の入り江があり、十四五隻の川舟がならんでつながれていた。船頭たちは六月の初め頃から薩軍に徴発せられて、河口の東海から北川上流の下赤、北浦方面の三川内あたりまで、上りは軍需品を、下りは幾人かの死傷者を運ばねばならなかった。その夜もまだ夜明け前だったので、船頭たちは眠っていたが、十人ばかりの薩兵たちが闇の中からあらわれ、五六人の薩将たちが乗り込んできた。その薩将たちの命を受け、船頭は北川に乗り出し、竹瀬、家田、俵野を経て、差木野に向かったと云う。舟が動き出したとき、薩将の一人が『自分たちが舟で下ったことは誰にも話すな』と言った。その中の一人の肥大な、眼の大きい人が、厚い板の上に悠然と腰を下ろしながら、差木野に着くまで黙っていたという」(香春建一著「西郷臨末記」より)

この舟の二人の船頭は、東海の渡辺松夫、平野忠治の両青年。平野青年はこの時、30歳だったそうで、著者の香春さんは、昭和9年5月14日、90歳近く(86歳)になっていた平野さんを延岡市奥東海の家に訪ね、上記の話を直接聴き取りしたそうです。

『辺り一面に立ち込めていた濃霧が晴れると同時に、戦闘が開始されました。西郷は和田越本営で全軍を指揮、一方、山縣有朋参軍も和田越からおよそ二キロメートルの樫山に置かれた第二旅団本営で部隊を督戦しました。西南戦争中、両軍の総大将がともに前線で指揮を執るのはこれが初めてのことでした』

政府軍対薩軍の総力戦、和田越の戦いがついに始まります。

 

 

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