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可愛山陵で御陵祭~5日、ニニギノミコト終焉の地で

ニニギノミコトの(瓊瓊杵尊)の終焉の地とされる俵野の「可愛山陵」(えのみささぎ)で5日午前9時半から、御陵祭が開かれます。主催は俵野文化財顕彰会(児玉正三会長)。天神社の井本盛実宮司が祝詞を奏上、参列者が1人ずつ祭壇に玉串を捧げた後、川坂神楽保存会(廣瀬和男会長)の会員7人が「鎮守の舞」「幣の手舞」「三番荒神の舞」を奉納します。御陵祭は神武天皇の命日である4月3日に毎年開催していましたが、2年前から命日に近い日曜日に開催されています。
ニニギノミコトは、天照大神(アマテラスオオミカミ)の子孫で、高天原から高千穂峰へ天降ったとされています。その後、コノハナノサクヤヒメと出会って結婚しました。可愛山陵はニニギノミコトの終焉地と言われており、可愛岳の麓にある塚は、明治28年(1895年)に宮内庁から「北川陵墓参考地」として認定されています。陵墓参考地とは、「被葬者は特定できないものの、陵墓である可能性が高いために宮内庁が管理している墳墓など」を指します。北川陵墓参考地は、日本書紀に記されているニニギノミコトの「筑紫日向可愛山之山陵」という記述が、可愛岳を指しているという伝承が根拠となっています。宮内庁は、全国に46の陵墓参考地を管理しており、その総数は陵墓などを含め899に及びます。
明治10年(1877年)の西南戦争の際、西郷隆盛率いる薩軍がこの可愛岳の麓に児玉熊四郎邸に宿陣しました。これは「官軍が皇祖の御陵に砲撃しないだろう」という考えがあったためと言われています。陣屋をこの「可愛山陵」の手前に置いたことで、政府軍は砲弾を飛ばすことはできなかったとされています。
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