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和田越の戦い~灼熱地獄、死闘5時間

西南戦争10

 和田越の東に無鹿山や友内山、西に小梓山となどと標高40mから90mの丘陵が連なります。明治10年(1877)8月14日、延岡戦に敗れた西郷軍は和田越を本陣とし左右の丘陵に布陣、西郷隆盛はこの戦役で初めて前線で指揮を取り、本陣の東無鹿山一帯に飫肥隊や高鍋隊、本陣周辺に行進隊、正義隊、本陣の西小梓山一帯に熊本隊、奇兵隊など西郷軍3,500が布陣しました。攻め手の官軍は山県有朋を総帥とし、和田越の南方、樫山を本営とし、稲葉崎や大武辺りに布陣、約5万の兵で西郷軍と対峙しました。翌8月15日午前9時頃、この戦役最大の激戦が始まりました。官軍ははじめ堂坂の湿田に進軍を阻まれますが、圧倒的な物量と徴兵制によって近代化された官軍は、火器弾薬が貧弱な西郷軍を次第に攻め込みました。さらに無鹿山などに布陣していた飫肥隊や高鍋隊は、東海港の官軍軍艦から艦砲射撃が加えられて敗走。午後2時頃西郷軍は長井方面に総退却する事態に至りました。官軍は和田越一帯を占領、この戦いで西郷軍は100余人、官軍側は201人の戦死傷者を出しました。(宮崎みんなのポータルサイト miten より)

『明治十年二月、鹿児島を発した薩軍は、熊本城攻め、植木・田原坂の激戦に敗れて矢部に退き、人吉・宮崎・都農を経て、八月二日大貫の山内善吉家に南洲翁は初めて延岡入りをして宿陣した。十日、原時行邸に宿陣、十一日北川に於いて船中露、十二日熊田の吉祥寺に宿陣、十三日、十四日笹首小野彦治家に宿陣し軍議を重ね、十五日未明北川を舟で下り和田越戦場に向った』

『午前七時朝霧がようやく晴れようとする頃、和田越えの中腹、堂坂から一発の砲声が響いた。まさしく薩軍の開戦の合図である。こうして、西南戦争の最後を飾る、和田越の決戦の火ぶたは切って落とされたのである。官軍五万に対し、薩軍僅かに三千五百、しかし決死の薩軍はい火の玉となって戦ったのである』(北川町教育委員会「西南戦争、戦跡を訪ねて」より)

 延岡陥落

八月十四日に各戦場より退却した薩軍は延岡に集結したが政府軍の包囲攻撃を受け和田越稜線に退き明日の決戦に備えて布陣した。延岡隊もこの日野田に於いて降伏し、五月騎兵隊進駐以来の延岡は遂に陥落した。

 和田越決戦・南洲翁初めて戦場に立つ

『八月十五日(旧暦七月七日)晴天、南洲翁は開戦以来初めて戦場和田越山上に立つ。薩軍三千五百は長尾山・小梓山・和田越・無鹿山に布陣し、樫山山上に立った山縣有朋中将の率いる政府軍は稲葉崎・大武方面に布陣し五万の兵で攻撃した。灼熱地獄の中での死闘五時間、午前九時頃砲声最も激烈、十一時頃薩軍の一角より敗れ、午後二時頃全軍戦捷空しく敗走俵野に至る。この戦い南洲翁死処を求めし最後の決戦なり。ここに記して永く歴史を残す』

延岡西南の役顧問 中井平一郎 撰

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