猪熊屋敷跡~延岡で召し取られ、京で斬首刑




北川散策㊹
「猪熊屋敷跡」は、北川町川内名に伝わる史跡で、猪熊大納言屋敷跡とも呼ばれています。延岡市の遺跡分布調査報告書では、山瀬遺跡の備考欄に「猪熊大納言屋敷跡」と記載されています。この屋敷跡については詳しい史料が多く残っているわけではありませんが、地元では平安時代末から鎌倉時代頃の公家・武将である「猪熊大納言」(猪熊教利=のりとし)にまつわる伝承地として知られています。遺構や建物は残っておらず、屋敷があったと伝えられる場所として伝承されています。所在地は、北川町川内名の山瀬地区。「猪熊大納言」は、史実と伝説が入り交じった人物として語り継がれています。
猪熊大納言の伝説
地元に伝わる話では、猪熊大納言は京都の公家で、都での争いや政変を避けて日向国(現在の宮崎県北部)へ落ち延び、北川町山瀬に屋敷を構えたとされています。この地では農地を開き、人々に農耕や生活の知恵を授け、村づくりに尽くしたため、村人から慕われたと伝えられています。そのため屋敷跡が大切に語り継がれてきたとされています。ただし、これらは口承が中心で、史料による裏付けは限られています。
「猪熊」という名は、京都の公家である猪熊家に由来すると考えられています。鎌倉時代から南北朝時代にかけて、政争に敗れた武士や公家が九州各地へ下向した例は少なくなく、この伝説もそうした歴史を背景に生まれた可能性があります。しかし、北川町の猪熊屋敷跡と特定の猪熊家の人物を結び付ける一次史料は現在のところ確認されておらず、歴史学上は「地域伝承」として扱われています。
猪熊教利は、在原業平や「源氏物語」の光源氏を想起させる「天下無双」の美男子として著名で、その髪型や帯の結び方が「猪熊様(いのくまよう)」と呼ばれて京都で流行する程に評判でした。また、かねてから女癖が悪く、「公家衆乱行随一」と称されていました。慶長14年(1609)7月、女官5人と烏丸光広ら公家7人との密通が露顕する、いわゆる「猪熊事件」。詮議の過程で、猪熊教利がこれら乱交の手引きをしていた事が明らかとなり、激昂した後陽成天皇は処分を幕府に一任。同年8月4日に幕府は教利に対する逮捕令を諸国に下し、捕らえ次第、京都所司代に引き渡すよう厳命しました。所司代の追及を恐れた教利は、当時かぶき者(常識外れの武士)として知られた織田頼長の教唆を受けて西国に逃亡。一説には朝鮮への亡命も企てていたとも言われています。
しかし、同月中に潜伏先の日向国において供の阿少による裏切りで、延岡城主・高橋元種により召し捕られ、9月16日に一間四方の籠に入れられて京都に護送された後は、二条に収監され、10月17日に常禅寺で斬刑に処されました。享年27。捕えられた場所が北川町の屋敷跡なのか、延岡市内の別な場所なのかを含めて分かりませんが、「猪熊は現在の延岡市北方町八峡に隠れていましたが、供の阿少という者が猪熊に不平を持ち、領主である高橋家に訴え出たので、中村太郎右衛門を遣わし逮捕した」という説もあるようです。

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