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川坂神楽を奉納~道の駅北川はゆま開業30年フェスタで

道の駅北川はゆま(畑野真一駅長)の「開業30周年フェスティバル」が7月25、26の両日、同駅レストラン横の特設ステージで開かれました。うだるような暑さの中、地元北川町の川坂神楽保存会(廣瀬和男会長)が「鎮守の舞」「御幣の手舞」「笠取荒神の舞」「天の宇受売の神舞」を披露。県外から駅を訪れたお客さんから大きな拍手が送られました。

川坂神楽は、出雲神楽の流れを組むと言われ、奈良時代に修験者によって伝えられたとされています。内藤家文書「諸社祭礼神楽」には、川坂岩戸神社で神楽が舞われていた記録があり、昭和初期まで盛んに舞われていたと思われます。川坂神楽は、戦後途絶えていましたが、北川町の青年団が中心となって昭和49年(1974)に復活させました。岩戸神社には当時を偲ばせる神楽殿があり、復活後の昭和52年(1977)に建て替えを行いました。川坂神楽は、5つの神楽式を十二節に分けた三十三番神楽と別神楽四番で構成されています。舞は平舞(面を付けない舞)と面舞(面を付ける舞)とに分けられ、舞の所作は摺り足とし、顔や手などの所作も簡潔にし、舞踊などの所作は禁じられています。比較的静かな舞が多く、派手さは少ないのが特徴です。川坂神楽~①鎮守の舞②平手の舞③幣の手舞④三番荒神の舞⑤矢の手舞⑥弓の舞⑦糸の手舞⑧日月手舞⑨笠取荒神舞⑩問答神楽⑪志那賀津彦の命舞⑫酒解の神舞⑬天の太玉の命舞⑭天の宇受買の命舞⑮天の手力男の命舞⑯天の戸隠の神舞

◎年越し神楽→12月31日~1月1日、会場→岩戸神社

◎十日えびす神楽→2月10日 今山恵比寿神社

◎里神楽→旧正月周辺、岩戸神社(春祈祷)→3月10日

延岡の大峡神楽・山崎洋一さん著「縣の庄の神楽のこと」(平成25年1月発行)には、『延岡市(伊形町、大峡町、大野町、尾崎町、鹿狩瀬町、北川町川坂)と門川町の一部に伝承されている延岡神楽は出雲神楽系と言われています。五ヶ瀬川流域に位置するため、高千穂神楽と同じ系列と思われがちですが、面と舞に共通点が余りなく、むしろ舞の所作や面に類似点が多く見られる、耳川水系の諸塚神楽に共通点を多く見ることができます』。

また、内藤家の古文書と今山八幡宮旧記録にも、『川坂神楽は、高千穂神楽と同じ系列と思われがちですが、素戔嗚尊(スサノオノミコト)の八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治をした「綱切り」が演じられている他に、「面と舞に」共通点が余りなく、耳川水系の諸塚地方の神楽に共通点が多く見られるようです』と書かれています。

応永26年(1419年)に書かれた「今山八幡宮旧記」には、「弓矢神楽が舞われた」という記録があり、また、内藤家文書「諸社祭礼神楽覚書」(寛政4年1792年)には、延岡、旧北方の92の神社で夜神楽・昼神楽の区別と開催日が記され、神楽が奉納されていた記録があります。その中に、岩戸神社について、「長井村川坂門 岩戸大権現 11月10日夜から11日まで神楽」の記載があり、その他にも北川の各神社でも舞われていたという記録が残されています。また、神社一覧表には、岩戸神社の神楽殿が、「安政6年11月(1860)に建立されたと記されています。

明治41年2月14日には、14人の団員で「神楽組合」が発足しました。岩戸神社神楽殿に保存されている「神楽櫃(びつ)」=衣装を保存する衣装箱=の蓋(ふた)にも「明治41年元旦組織」との記載が残されています。この神楽櫃には「荒神の衣装」、「天蓋・舞衣」などが入っていましたが、虫食いで使える状態ではなかったそうです。

組合の師匠は「松本荒吉氏」で、明治42年に33番を習得して以来、夜明かし神楽が舞われていましたが、昭和14年の冬祭りを最後に途絶えたようです(郷土芸能誌・青年団協議会誌より)。

〇神楽組合は以下の会員です。組長=米田徳三郎▽副組長=佐藤作松▽世話人=澤野惣吉▽組員=小野平七、盛武梅太郎、小野秋治、甲斐熊太郎、佐藤善五郎、安藤梅太郎、盛武吉作、安藤嘉太郎、安藤喜久一、盛武三之助▽枢板1枚=澤野博吉。

以来30年余り、神楽は舞われていなかったようですが、昭和49年4月1日、当時の青年団員を中心に「川坂神楽保存会」が結成されました。当時、川坂で神楽を舞える人は安藤喜久一氏しかおらず、しかも高齢で教えることが出来なかったため、「田野勝之氏、小野藤市氏、安藤林氏」のご尽力で同じ神楽の流れを汲む、延岡市伊形町の岩切隆氏(元高校教諭)に師匠をお願いし、約1年掛けて練習をして神楽を習得しました。もちろん、その1年で33番全てを覚えることは困難で、それからも数年かけ練習を重ねたようです。また、神楽復活にあたり、神楽の衣装を揃えるのに、上記3名の方を中心に区民の皆様の浄財で揃える事が出来ました。

〇発足当時の会員=安藤時夫、伊藤昇、小野雅春、甲斐智、甲斐信良、甲斐文男、神田都晴、佐藤宗一、廣瀬和男、廣瀬光明、安藤次郎の各氏。

その後の活動を年譜に起こすと~

昭和49年4月=川坂神楽保存会結成▽同年12月=年越し神楽を開始▽同51年11月=全国青年大会(東京)に出場▽同年12月=神楽殿を新築▽同58年=夕刊デイリー明るい社会賞を受賞▽同59年=里神楽始まる▽同61年=皇太子殿下夫婦来延の際に神楽を披露▽平成6年=川坂こども神楽練習開始▽同9年=県神社庁表彰▽11年=北川町文化功労表彰受賞▽同15年=ドイツ公演に参加▽同12月=NHKゆく年くる年で実況中継▽同16年3月=神楽保存会結成30周年記念里神楽▽同17年=明治大学神楽公演に参加▽同20年=市社会教育優良団体表彰▽同24年=日本善行賞受賞▽同26年3月=神楽保存会結成40周年記念「薪神楽inかわざか 第2回復活春祈祷祭」実施などです。(「川坂記憶誌」(平成28年・川坂記憶誌編集委員会)より抜粋)

〇平成28年1月現在の会員 会長=小野雅春▽副会長=甲斐智▽会計=廣瀬和男▽会員=佐藤宗一、安藤時夫、甲斐文男、神田都晴、伊東光明、甲斐義智、廣瀬直樹、新名訓和(熊田)戸高大志(延岡)

〇令和8年7月現在の会員 頭取=小野雅春▽会長=廣瀬和男▽会員=甲斐智、甲斐文男、神田都晴、伊東光明、廣瀬直樹、新名訓和、小野田大志、矢野大和、甲斐義智、矢野愛子▽子供神楽=田野遥己、河野朝陽、田野和希。

北川町と教育委員会社会教育課が昭和58年3月に発行した「高齢者生活誌『谺』(こだま)」には~「神楽ノート」と題して次のような記載があります。

『氏神である岩戸神社は、毎年、夏秋の二回神楽を行っていた。各集落から一人ずつ選出された氏子総代の会議によって、神社の経営が行われた。氏子総代の中から毎年一人ずつ当元(とうもと)といって神楽当番が決められていた。当元は一年間の受け持ちである。祭礼(神楽)には各氏子総代が、当元の家に集まって、祭典(祭・神楽)の用意を整え、神主・祝客等の接待をする。

 冬祭りの場合は、当元の氏子が、当元の家に、祭礼の以前に集合して、祭費と氏子個別の仕事の役割が決められる。祭礼に関する準備 綱神楽の蛇作り 藁、各戸から米を取り集める 神社・舞堂及び当元の家の掃除 餅つき・・など。青年達は御神燈の五色の小障子の張替え。宵祭りには、大蛇棚に胴を幾曲がりにも曲がりくねった青蛇と赤蛇が雑木を枝付きのまま作った柴垣の間から、金色の眼光が見えるのが、まるで生き物のような凄さを感じさせた。神楽殿も色紙で切り抜いた鳥や動物などが貼り付けられ、身をそぐほどに冷たい寒風②ひらひらとはためいてた。神主や祝子(ホウシャ)の白衣が宵闇にちらつくころになどと、参道の両側には玩具や飴菓子、小物売りの夜店、飲み物などの屋台店が並んだ。神苑にはあちこち焚火が燃やされて、お神酒に酔った人たちでにぎわった。やがて宵闇にひびいて奏楽の太鼓・笛・鐘の音が流れ出すと、白衣の祝子達が三十三番の第一の鎮守を舞い始める。高く、低く舞い乱れる舞衣、ひらひらとひるがえる舞扇、それはまさに、神と人との荘重な儀式であった。男っぽい鬼神舞の出るころは、もう真夜中である。大蛇の胴を神刀で切りつける、最後の舞は、夜が明けてからであった』(執筆は田野勝之氏・原文のまま)

 

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